そして始まったアトランタのDr.Roy Sweatオフィスでの研修は、常時Dr.Royの隣でいつでも質問ができる夢のような環境でしたが、AO創始者直々の指導は、決して生易しいものでは無く真剣勝負の連続で、研修生が怒鳴られることは日常茶飯事でした。
Dr.Royの求める基準値に満たなければ、レントゲンは何度でも撮り直し、分析に至ってはどこが間違っているかの指摘も無く、自身で正解を出すまで次に進むことは認められず、言葉もかけてもらえません。
日本の昔ながらの職人気質に近い 「技術は見て盗んで覚えるもの」 といった指導スタイルは、若いアメリカ人研修生達には苦労を強いられるものの様でした。
現在、世界各地で活躍する主要AOドクターの多くは、Dr.Royのもとで同じような研鑽を積んでおり、アトランタ学会に訪れる何十年も経験のあるベテランドクター達でさえ、Dr.Royの前では皆学生と同じような扱いを受けるのでした。
私自身はアトランタへ行く前に、フロリダのDocのもとで数ヶ月にわたり、上部頚椎臨床の基礎から伝授してもらったお陰で、Dr.Royから怒鳴られることはほとんどありませんでした。むしろ研修の後半には何十年も先輩のドクターに、技術指導をするように命ぜらることが幾度もありました。
新卒のアジア人から指導を受ける先輩の心境を考えると、居心地の悪さを経験したことも一度や二度ではありませんでした。
幸運にも私が研修をしている時期に、サウスキャロライナ州のシャーマン大学と提携したBoard Certified Atlas Orthogonist (B.C.A.O.)プログラムが始まり、第1期講座に出席することができ、日本人初のB.C.A.O.を取得しました。
日本ではレントゲン撮影が難しい事情もあり、帰国を思案する私に、Dr.Royは東京でレントゲンの撮影を協力をしてくれる医師へ手紙を送り、日本でのAO啓蒙活動を担うという堅い約束のもと、帰国の背中を押してくれました。
こうして10代の渡米から始まった本物のカイロプラクターへの道は、パーマー大学を卒業し、当初の目的であったDoctor of Chiropracticの称号を手中に収め、私自身が痛みを経験するという運命的な出来事により、日本人として初めてのBoard Certified Atlas Orthogonistまでも取得し臨床に進むこととなりました。
この8年間には、日本を飛び出さなければ想像もできないような様々な出会いがありました。偶然出会った見ず知らずの私を支えてくれた人々には唯々感謝するばかりです。
彼等にできる恩返しとは何かと旅路の間考え続け、「日本でまだ本物の上部頚椎カイロプラクティックを知らない多くの人々に、その素晴らしさを伝え共に謳歌できるよう、日々真摯に取り組むことではないか」との答えに至りました。
そして、新しいステージに挑む決意を抱き、元旦に日本に到着する飛行便で帰路につき、日本での臨床の道が始まりました。