アトラス・オーソゴナルの世界 Vol.03「青年Roy Sweat」

The Road to Atlas Orthogonist  Vol.03

青年Roy Sweat

Dr.Grosticがミシガン州で活躍し始めた頃、青年Roy Sweatは米国海軍兵として横須賀に駐留していました。Royは当時、慢性的な偏頭痛に悩み、投薬をはじめ凡ゆる治療も効果の得られなかった姉から、唯一カイロプラクティックによって症状が改善した実体験を聞いていました。退役後ジョージア州に戻ったRoyは、姉の主治医の出身校パーマー大学でのカイロプラクティック習得を志し、アイオワ州ダベンポートへ向かいました。

1940年代半ばのパーマー大学では、Dr. BJ自らが上部頚椎に特化した授業を行い、Royも日々習得に励んでいました。温暖なジョージアと極寒の冬が続くダベンポートの気候の違いにより、大変苦労したとの逸話がパーマー大学出身者の間では残されています。

1950年パーマー大学卒業後、ミシガン州のDr.Grosticを訪れたDr.Royはそのテクニックに魅了され、頻繁にアトランタとミシガンの往復を繰り返し習得に努めます。「当時の交通事情を思うと移動の苦労も有ったのでは?」とDr.Royに尋ねたことがありますが、「苦労は有ったが、受講を始めてからDr.Grosticの主宰するセミナーには全て出席した。」とキッパリした返事が返ってきたことをよく覚えています。

若く、体力と身体能力に恵まれたDr.Royは、数年のうちにテクニック及びレントゲン分析をマスターします。特にレントゲンに於いてDr.Royの右に出るものは居なかったと聞きます。そして1955年、20代にしてDr. Grosticからセミナーのインストラクターを頼まれるようになりました。異例の若さで大抜擢されたわけですが、Dr. Grosticにはとても可愛がられたそうで、今もオフィスには数々のDr.Grosticと若き日のDr.Royの写真が飾られています。

Dr.Grosticから直々にインストラクターを任された者は総勢6名で、その半数以上は南部アトランタ周辺のDoctorでした。1964年にDr. Grosticが他界すると、Dr.Royが中心的な後継者となり、インストラクター6名のうち5名がアトランタでのセミナー開催に賛同し、Grostic夫人を理事に招きグロスティックセミナーがジョージア州アトランタで開催されるようになります。そしてミシガン州出身のDr.Gregoryは1人地元に残り、National Upper Cervical Chiropractic Association(NUCCA)を始める事になりました。

Vol.04へ続く

 

~今日の1枚~
Dr.Royオフィスに飾られている写真より、1952年ミシガン州アンアーバーで行われたGrostic Basic Seminar出席者。
(前列中央がDr.Grostic、向かって右がDr.Roy)

記:井上裕之

 

2020-04-09 | Posted in AOの世界No Comments » 

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