アトラス・オーソゴナルの世界 Vol.01「BJとの出会い」

The Road to Atlas Orthogonist  Vol.01

BJとの出会い

1930年代、Dr. B.J. Palmer(Dr.BJ) は上部頚椎に特化したテクニックを実践し、その大学教育においても名声を得ていました。
当時のパーマー大学の教科書「グリーンブック」には、テクニックだけでなくレントゲン写真の分析にも注力していたことが見て取れます。
米国においてもレントゲン装置の普及率が高くない時代、中西部から西側地域で最初にレントゲン装置を完備したのはパーマー大学病院であったと言われており、本場米国でもカイロプラクティックの知名度の低かった時代に、西洋医学の限界を超えた施術結果を示し、人々の信頼を得てきたことは周知の通りです。
カイロプラクティックの礎は、まさに上部頚椎の正確なアジャストによって得られた人々の信頼をもとに構築されたと言えるでしょう。

その同時期である1929年、ミシガン州の小さな町に、リンパ腫で余命2年と告知された20歳の青年John F. Grostic(Dr.Grostic)がいました。まだ癌という名称が一般化される前のことです。
彼は地元カイロプラクターによる治療で、リンパ腫の症状が快方に向かった後、Dr.BJによるアジャストを勧められ、アイオワ州ダベンポートのパーマー大学病院でDr.BJ本人からアジャストを受けました。
その結果、余命宣告まで受けていたリンパ腫を克服するという奇跡的体験をし、生涯をカイロプラクティックに捧げる決意で、パーマー大学に入学しました。

不安定な体調ながらも、Dr. Grosticはカイロプラクティック習得に専念し、1933年パーマー大学を卒業後ミシガンに戻り、臨床と研究に明け暮れていました。

しかし数年後、頭部強打が引き金になりリンパ腫の症状が再発、地元のカイロプラクターのアジャストを受けたものの、体調は悪化の一途をたどり、動くことも出来ない状態になります。
しかし、家族はなんとかDr.Grosticを電車に乗せダベンポートに向かいます。そして再度Dr.BJのアジャストを受けた結果、劇的な回復を遂げたのです。

Vol.02へ続く



~今日の1枚~
このDr. B.J. Palmerの名刺額装は、ダベンポート出身のDoctorのオフィスに40年近く飾ってあったものを本年1月に受け継いだものです。
ダベンポート及び近隣では、現在も数多くの著名なカイロプラクター、特に上部頚椎を主体に治療するドクターが日々臨床にあたっています。

記:井上裕之

 

2020-03-12 | Posted in AOの世界No Comments » 

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